臨床の学び舎おんせいげんご BLOG

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定延利之先生、読みやすくて深い…おススメの本。

『ささやく恋人、りきむレポーター 口の中の文化』 

定延利之 著 岩波書店

 

〈はじめに〉の一部を以下に抜粋しています。個人(古田)的に定延先生の視点はホントに興味深いと思う。私もこういうところから音声言語を捉えなおしたいと思う。

 

 

「パパ、おにいちゃんがパパカイする!」

もともと私は「正しい」文法学者だったのだが、「見てはいけない」と言われると余計見たくなる性分が直らず、ふつう文法外とされる音声やコミュニケーションの研究会に出入りしだして十数年になる。大学改革の波が重なり、大学の研究者は己れの研究の社会的ニーズをもっと意識せよという流れに背中を押されて、5年前からは右に書いたような研究にも参加させて頂いている。


 機械に教えるにしろ、人間に教えるにしろ、私たちは気持ちのこもった現実の日本語音声コミュニケーションについて、もっとよく知る必要がある。そういえば十数年前、或る先生のお宅でこんな兄弟の会話に遭遇した。

 

 兄:ひゅーん、ばーん!
 弟:パパ、おにいちゃんがパパカイする!

 

 「兄」と書いたのは小学校低学年の子供で、超合金合体戦闘ロボというのだろうか、そういうものに夢中になっている。いま、そのおもちゃの一体を片手で振り回して、弟の頭に時折ぶち当てているのは、おそらく戦闘ロボが大空をかけ、悪の巨大魔獣を攻撃しているところなのだろう。弟は幼稚園児だが、こうした兄の不条理な攻撃に日常たえずさらされているためか、「親(パパ)に言いつける」という効果的な対処方法を良く身につけているようで、ここでもそれをすかさず実践している。


 ここで注意したいのは「パパカイする」である。これが「戦闘ごっこでいじめる」を意味することは状況から察知できる。つまり、この子は兄が自分を戦闘ごっこでいじめることを「たたかいする」と表現し、さらに、前の「パパ」にひきずられたのかもしれないが、「たたかいする」を「パパカイする」と発音している。


 これらの表現や発音は、子供らしさを見事にかもしだしているが、大人の発音としてはおかしい。この弟が十数年たったいまでもやっぱりこのような表現をし、発音をしているとしたらちょっと問題だろう。その意味で、これらの表現や発音を「まちがい」と呼ぶことにする。


 このように日本語社会に生まれ育ったとはいえ、子供には未熟なところがあり、表現や発音を時に間違う。当たり前だと思われるかもしれないが、子供であっても、まず絶対というほど間違わないものがある。それが例えばイントネーションである。

 

子供はイントネーションを間違わない。

弟が「おにいちゃんが、パパカイする!」の末尾「する」を、間違って急激な上昇調で発音してしまう。それを受けて、父が兄に「おにいちゃん、やめろ!」と言う一方で弟にも「こらこら。そこを上げると『おにいちゃんがパパカイする?』みたいな疑問文になってしまうだろうが。最後のところは上げずに言いなさい」と言う。それを聞いた兄弟が「は~い」と返事するが、これをそろって下降調で発音してしまう。つまり「は」を高く、そこからどんどん音を低くして「い」と発音する。


 それを聞いた父がさらにいきり立ち、「おまえら、アメリカ人か!それは英語の『ハ~イ』じゃないか。よくわかりましたの「は~い」は高く平らに言え!しぶしぶの返事ってやつをしたいのなら、『は~い』の『は』はうんと低く発音する。そこからだんだん上げて、『い』は高く発音するもんだ。」と説教する。さらに私に向かって「いやぁ、定延君おはずかしい。うちの子、まだ上昇と下降がはっきりしないだよ」と嘆いてみせ、私が「上昇と下降は難しいですよね!」などとフォローする。


 このような会話がありそうもないと思うのは私だけではないだろう。単語の意味や発音は、特に子供ならよく間違える。だが、イントネーションは子供であっても、まず間違えない。どこの子供も自分の生まれ育った方言の言葉でしゃべればイントネーションは正確である。


 イントネーションだけではない。例えば「え~と」「あのー」のようなことばはフィラーと言うが、これも私たちは子どもの頃から間違えない。次章で詳しく述べるが、「123足す456は?」と言われたら、「え~と、597」は自然だが「あのー、597」はちょっとおかしい。小さな子どもが「あのー、597」のような発言をしてしまって、それを聞いていた大人が「まぁ、かわいいこと!○○ちゃんもまだ子どもね~」と目を細める、というようなことはない。


 イントネーションやフィラーなどを、私たちが生まれる前から身につけていたといことはないだろう。だが、これらが例えば「たたかう」という言葉の意味や発音よりも、私たちの体にずっと深くしみついているとすれば、それはなぜだろう?イントネーションにゃフィラーなどが身につく仕組みは人類共通のものなのだろうか?日本語のイントネーションとフィラーには、「日本語ならではの特徴」と呼べるようなものがあるのだろうか?もしあるなら、それは日本語の文法と無関係なものなのだろうか?あるいはどこまでかんけいしているのだろうか?


 そもそも、イントネーションやフィラーが現れる私たちの日常的な音声コミュニケーションとはどのようなものなのだろうか。

 

 

…とりあえず途中ですがこれくらいで。

興味を持たれた方は是非。1600円ですよ。