臨床の学び舎おんせいげんご BLOG

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4月24日(土)、執行部会?

 このコロナ禍ではありますが、感染対策の意義と方法をしっかり理解いただいている方が、ソーシャルディスタンスをばっちりとることができる状態(=参加人数3人/20人程度可能な会議室(笑))で集まる「おんせいげんご」、京都府に緊急事態宣言が施行される前日4月24日に、小さく行いました。

 

 学びの演目は、『流暢に話すための聴知覚能力について:吃音者の聴知覚能力の検証』についての論文を担当の英さんが紹介してくれました。この論文を研究報告された方とここに興味を持った私たちの背景には、やはり一般に吃音をお持ちの方はその聞こえ(Feedback)においてもやや特徴を持つのではないか?という点に視線が向いているわけです。発話が円滑に正しく行われていくには、そのモニターも円滑に並走しなければいけないのでは?・・・という直感です。

 まず端的に論文の内容ですが、「聴知覚」に目線を落とすことに難渋されているという印象を3人とも持ちました…。

 

 論文では、まず特定の周波数帯域を大胆にカットした短文の音声サンプルを作成。その聞き取り成績を健常群と吃音群で調べるという実験を行い、結果として、健常者は聴取できるが吃音者は聴取が難しいぞ!という前提を導いて、その上に吃音者の聴知覚について考察を重ねるという論文でした。

「前提を導いて」という点ですが・・・現時点で吃音者ではない私たち3人も、その音声サンプルを十分に聞き取れなかったんですよ・・・論文中の吃音をお持ちの方たちと同様に(-_-;) ええ、部分的に聞こえたところもありましたが、言うなれば、完膚なきまでに聞き取れなかったといっても差し支えない状況でした( ;∀;) つまり、論文の前提が導けなかったんです。

 ほんと周波数帯域のカットが強力すぎて、ほぼほぼ聞こえなかったんですよ。とっても不明瞭な音声サンプルだから、これはもう発話内容を知ってなけりゃ聞こえない・・・ん?発話内容を知っていなければ???この論文の健常群はもしかしたら身内(同じ学派のの方々)では??・・・怪しい(-_-;)

 

 というわけで、論文の内容の是非は、他の研究者の論文と照らし合わせてからでないと納得できない部分が多分にあるようです。しかし、吃音を考える時に、このようにそれをお持ちの方の「聞こえ」について目線を持とうとする気持ちはとてもよくわかります。

 

 聴覚研究の世界的な第一人者、Brian C.J.Mooreの『An Introduction to the Psychology of Hearing(6th edition, 2013)』 の315pから「Speech perception」という項があります。その冒頭部分を以下に引用してみます(訳は古田&Google翻訳先生)。

 

  This chapter is concerned with the problem of how the complex acoustical patterns of speech are interpreted by the brain and perceived as linguistic units.  The details of this process are still not fully understand, despite a large amount of reseach carried out over the past 50 years. What has become clear is that speech perception does not depend on the extraction of simple invariant acoustic patterns directly available in the speech waveform.

 この章では、音声の複雑な音響パターンが脳によってどのように解釈され、言語としての単位として認識されるかという問題について述べています。 このプロセスの詳細は、過去50年間に大量の調査が行われたにもかかわらず、まだ完全には理解されていません。 明らかになったのは、音声の知覚は、音声波形に存在する単純な不変の音響パターンの抽出のみに依存しないということです。

 

  最後の下線のところが興味深い扉を開くKeywordですね。

 私たちの経験からもわかります。私は時々、大阪のJR東西線に乗るのですが、電車内のアナウンスがとても独特の口調と雑音まじりの音で、更に電車のノイズも重なって、何を言っているのかほぼ聞き取れませんでした。いつも自分が降りる駅を間違えないか不安で駅に止まるたびに看板を目で確認していました。しかし、慣れてきたら聴こえてくるようになりました。きっとそのアナウンスの雑音まじりの音響パターンはまぁまぁ大差ないでしょうが、私に駅名の記憶などが準備されたり、場の騒音に対する慣れなどが生まれて「聞こえる」ようになっていると思えます。ほんと、アナウンスの口調とか今でもしっかり独特ですし、今はコロナ禍で窓も開いてますから、電車のノイズは倍増しです。でも、もう慣れてますので駅名が聞こえてきます。

 

 つまり、音声の知覚の程度というのは、とても測りにくい所なんですよね。音声だと思うと、そのサンプルのある程度の不明瞭さなんて大脳(記憶や慣れなど)が補整して「聞こえさせてしまう」。では、音声じゃない音声を聴かせればいいとなるけれど、音声ではない音声で音声の知覚を実験するというのはいかがなものでしょうか・・・。

 少し考えてみたのですが、例えば、私のように日本語しか聞いたり話したりできない人に、どこか遠い国の独特な音声、たとえばヒンディー語とか?を聞かせれば、私にはヒンディー語の知識がありませんから、音声言語としては聞くことができない。でも、発音としては聞くことができる・・・ん~、とはいえ、日本語にある音(/aiueo/とか、/s/、/t/、/k/などの子音とか?)は優位に聞いてしまうような気がする・・・。やはり難しいですね。

 

 つまり、紹介いただいた論文、およびそれを読もうと思った私たちは、一般に吃音をお持ちの方はその聞こえ(Feedback)においてもやや特徴を持つのではないか?という点に視線が向いているわけですが、そこを掘り下げるのは、なかなかナイーブな部分だということですね。かなりしっかりとした実験手法が求められる。確かに日本語話者に日本語の音声を用いるならば、大胆な周波数帯域のカットでもしなければ、その人の日本語の音声に対する知識の補整から逃げきれないわけで、そういうことをしたくなる気持ちはわかる。

 

論文の抄読会についてはこんな感じでした。音声知覚の書籍、紹介しておきます。2009年の本です。読めたらいいなぁと憧れて買って手が届かず( ;∀;) 興味ある方はご一報ください。

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the perception of speech ( Brian CJ Mooreなど)



https://www.amazon.co.jp/Perception-Speech-Meaning-Philosophical-Transactions/dp/0199561311

 

 他、吃音って?という議論が繰り広げられました。様々多方面で研究されていますので、安易なことは言えませんが、私個人的にはDigitalな音韻認識に適うためのAnalogな各調音器官の序列にミリ秒単位での誤差が生じているのでは?などと手前勝手なことを言ってました(この持論だといわゆる構音障害も中枢性の言語障害の発話症状も同じレールにのるんですよ・・・ええ、まぁ、自論です(笑))。また喉頭がやはりMentalを背負う事も大きな要因になるのでは?という展開もありました。吃音症についてはまたこれからも議論を重ねたいと思うところですね。

 

 今回は執行部会的なメンツでしたので、今後の「おんせいげんご」のありかたについても話しました。この1年でHP作成やTwitter、Blog-site、そしてYou-tube channelなどの拡張を得ましたが、やはり、基本的なありかたは「勤務先などの垣根を超えて音声言語について疑問や興味を語り合える場であること」をMottoとしていこうと。これからも、気楽で自由な意見交換を細々と継続していこうという方向性を改めて確認した次第です。HPが設立1周年となるようですので、近々、またよりMottoに沿ったデザインへ更新しようと思っています。

 

  コロナ禍が落ち着きましたら、みなさんの気楽な参加を心待ちにしております。