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鼻音について(鼻母音)

 鼻音について、Twitter-siteの2020年11月12日のスレッドでは西岡君からの質問、勉強会では2020年11月の「滋賀おんせいげんご」のほうで話題になったので、かねてから読まねば・・・と思っていた論文からの引用を行いながら、書き綴りました。たぶん、超長くなると思います。楽しんでくれればと。

 

 

 引用元の論文は日本音響学会誌第12巻第4号(1956)の『母音の鼻音化」。著者は服部四郎氏(東京大学文学部)山本謙吾氏、藤村靖氏(小林理学研究所)です。

 

 服部四郎氏について、STさんは知らない人が多いけれども、大学で日本語学など先行されていた方は知っているという感じでしょうか。日本語研究の大家の一人ですね。個人的に『新版音韻論と正書法』、『音声学』は好きですし、特に前田正人氏の『国語音韻論の構想』との議論が好きです。山本氏については私はあまり存じあげませんが、藤村氏は『音声科学原論―言語の本質を考える』という著書があり、音声研究の道標ともういべき名著です。ちなみに「靖」は「おさむ」と読みます。

 

 昭和31年9月24日受理、昭和31年10月22日再受理という古い論文ですが、良い古典は本当におすすめできます。近くの大きな図書館(願わくば大学の図書館)で検索されると良いでしょう。

 

 では、どういう論文なのかですが、以下の緑字は上記の論文の要約引用。そのまま引用でもよいのですが、IPAなどの記号はBLOGでは限界があるし、書き方を読みやすいようにちょっと変えてあります。

 

 まず、一般に鼻音ってマ行、ナ行、ンガ行の子音部分だけっていう覚え方をされている人も多いですが、そうではないです。母音の鼻音化は珍しいことではありません。以下は論文から。

 

(日本語は)実際の発音では母音が隣接の[m]、[n]や「ン」の影響で多少鼻音化することがあり、また「ン」は「ヤユヨ」「ワ」、サ行音、ハ行音の前で鼻音化母音であるのが普通である。例えば、東京や京都では「パン屋」「電話」の「ン」はそれぞれ[i]、[u]の鼻音化で発音され、「電車」の「ン」は[i]~[ʒ]の鼻音化で発音される。

 

「ン」についてはSTさんのテキストにも書いてありますが…国家試験程度ではあまり話題に上がらない部分ですかね。口腔内が閉鎖しない子音や母音などが後続する「ん」は鼻母音で発音されます。

 

また非常に不明瞭な発音では、発音全体に軽度の鼻音化が現れることもある。

 

これ以外にも個人的には高齢者の発話なんかは全体的に鼻音化していると思います。いわゆる聴覚的に「高齢者の声」という印象を抱くのは嗄声と鼻音化ではないかと思っています。あと歌唱時の音声ね。演歌なんかは多くの場合、鼻音。裏声は通鼻するので言うなれば鼻音・・・そのへんは改めていつか。で、以下がこの論文の目的。

 

したがって、実験的に日本語の音声を調べる場合には、鼻音化母音(また子音)を扱う場合が少なくなく、鼻音化の特徴が物理的にどういうもので、例えば、ビジブルスピーチではどう表れるのかということも知っておく必要がある。

 

そういう理由で実験してまとめましたってことらしい。このビジブルスピーチとはVisual化したスピーチのこと。つまり、Spectrogramなど音声を見えるようにした状態のこと。そして、以下にまず、結論を引用。

 

  鼻音化母音の主な特徴は、その音の物理的性質として次のように表すことができる。

(1)250Hz付近で、咽喉鼻腔共鳴のために成分が強まる。
(2)500Hz付近で、鼻腔の共振に起因する選択吸収(側路としての鼻腔の反共振の現象)により成分が弱められる。
(3)(1)以外に鼻孔から放射される比較的弱い、雑多な成分の付加。これは咽頭の音が鼻腔を通って、鈍い、複雑な特性の変化を付け加えられた後、鼻孔から出る音である。

 

 この3つの特徴が、鼻音化の印象を与えるおもな要素である。そして、これらは、その中のどれが重要であるかは母音によって異なるが、通常どの母音の場合にも、またどの個人にも通用する一般的な鼻音化の特徴である。

 

…とあります。鼻音化という聴覚的な印象を生じさせる要因になっている鼻音化の特徴が物理的にどういうものなのか?を知らべてみたら、上記の3点において、鼻音化していない母音と鼻音化している母音に違いがあったということです。

 

(1)はいわゆる「鼻音フォルマント」としてSTさんの国家試験で習うやつですかね。

 

 これは通常の男声で大体、第2倍音の付近を中心に表れる鈍い共振で、口腔に閉鎖を作った鼻音[m]、[n]、[ŋ]などの持続部でもこれに相当する山が表れて、そのピークの位置も大体同じである

 鼻音化母音の場合には一般にその母音の第1フォルマント(咽頭から口腔にかけての室の共振の最低モードに当たる)が近いため、この特徴が見分けがたい場合があるが、鼻音化しない場合の母音のスペクトルと比較すれば明らかにわかる。 

 

STさんのテキストでも250Hz付近に出るとされているやつですね。次の(2)については、母音によっては(3)のほうが顕著だったりするとのこと。

 

(2)500Hz付近で、鼻腔の共振に起因する選択吸収(側路としての鼻腔の反共振の現象)により成分が弱められる。

 

 [i]の母音化には(2)の谷が見られないが、一体に狭い母音では、広い母音に比べて(2)がはっきりせず、そのかわり(3)が顕著になる。――その周波数も1000Hz以下の低い領域にまで現れる。――傾向があり、特にtenseな「イ」を鼻音化した場合には、(2)が見出せない場合がある。

 

(1)(2)(3)どの特徴においても鼻音を考える時に以下の点を注意しましょうとも。

 

 鼻音化したために全体の音の強さが変わることがあり、スペクトルを比較する場合には、ほかの周波数域と相対的な関係(セクション・パターンの長さはおおよそ対数的)に着目する必要がある。

 

そして、実験はもう少し視野を広げて行われる。この段落は名言です。

 

 音声における物理的な特徴を調べる場合には、常に音の特徴が調音上の特徴とどう関係づけられるかということとともに、その特徴が聴覚印象上どんな役割を持つかという点について吟味する必要がある。

 

 STさんの考え方でね、発音の仕方ばっかりに執心したり、Spectrogramが読める人はそればっかりで、聴覚的印象とか言うとなんか科学的じゃなくて程度が低いとか思っている人もいる。残念だと思う。音波をみて、それを発音した調音をみて、それが聞こえ含めて認識の上でどうなるか。どれも単独では存在できない大切なことだと思います。で、論文は続きます。

 

 この見地から前節で述べた3つの特徴を自然に発音された普通の母音すなわち口母音(Oral vowel)に電気的な方法(図5)で人工的に与え、その音が確かに鼻音化されて聞こえるかどうかを調べてみた

 

 電気的な方法というのはいわゆる「ソフトウェアで処理して」って感じでしょうね。普通の母音に上記の3つの特徴を混ぜ込んでみたというわけです。その結果は以下に。

 

(1)の特徴だけを与えると、音色の変化は容易に認められるが、鼻音化の印象としては甚だ不満足なものである。

 

これだけでは、私たちの「鼻音感」が満たされないらしい。

 

 さらに(2)の特徴をこれに付け加えると、急に鼻音らしい特徴が認められ、特に比較的広い母音(ア、エ、オ)では効果的である。

 

ほうほう。つまり、この(1)と(2)の両方が鼻音感を出しているということか。

 

 (2)だけを単独に与えても、なにか鼻音化に関連したような印象が感じられるが、その効果はわずかなもので、音色の変化としてもあまり顕著で内容である。

 

(2)は(1)より鼻音感が出るらしい。でも、物足りないらしい。だんだん、この「鼻音感」ってのが疑わしくなりますが・・・。演歌を聞いて「鼻音やなぁ~」って思う人は皆無でしょう?大川栄策さんなんて(顔をみればわかるけど)、ほぼほぼ鼻音ですからね・・・。「ええ鼻音やわぁ~」とは誰も思わないんじゃないかなぁ。

それはさておき・・・

 

 (1)と(2)の特徴を与えたものに、さらに(3)の特徴として、たとえば、1700Hzくらいに軽い共振を付け加えてみると、鼻音化の印象は一層よくなり、明瞭に鼻音化母音の性格を持つようになる。

 

(3)も意味があるんですな。

 

 比較的狭い母音(イ、ウ)の場合には、特に(3)が効果的である。

 

 そうなんですね。混ぜ具合は・・・?

 

(3)単独では大して音色に変化を生じない程度にして(1)と(2)とを組み合わせると効果がある。

 

という実験だったとのこと。すごいね、ここまでのことを昭和31年に行っているというのが凄い。こういうのが重ね重ねされてSmartphoneなどの通話音声の明瞭化やGoogleAmazon音声認識になっていたんだろうね。そして、STさんの分野への展開はどこで途絶えたんだろうね。

んで、さらに・・・

 

 次に上述の実験とは逆の実験も試みた。すなわち、まず鼻音化した母音を発音して録音し、これを電気的に改変して250Hz付近を弱め、500Hz付近を強めて、(1)と(2)の特徴を失わしめた。このようにして例えば鼻音化した「エ」の改造をすると、鼻音化の特徴が失われて、普通の「エ」に近いものとなる。

 

さすがです。ちゃんと確認されています。そして、(1)(2)(3)それぞれについて物理的な説明が続きます。

 

 1)250Hz付近の成分が強くなるのは、声門から咽頭、鼻腔を含めて鼻孔に至る通路の全体としての共鳴(最低モード)により、鼻腔から(あるいは一部は壁を通して)外に放射される音が、この領域で時に強められるためである。

 

ノド、ハナ、クチすべてで共鳴した結果が250Hzなんだね・・・。そういうもんなんだね。こういう角度で話をすると、なんだかハナがノドやクチみたいに「空洞」みたいな印象を持つけど、そんなことはないんだよね。ハナは結構、襞状のものがぎっしり詰まっているから、この共鳴はきっとかなり複雑なもんでしょうね。

 

2)500Hz付近での選択的吸収は、鼻腔内の共振(最低モード)に起因するもので、咽頭から口腔にかけての声の通路から見れば、その途中にできた枝分かれの系によって反共振を生じたと解されるものである

 

この「反共振」というのが、STさんの教科書でいう「アンチフォルマント」っていう考えかな。論文では「簡単なガラス管のモデル」で説明してくれています。

 

3)フォルマントの谷を埋める傾向として現れる弱い複雑な成分は、主として側路としての鼻腔を通して、母音のフォルマントを形成する共振管の途中から外部に‘漏れ出る’音であると解される。すなわち鼻腔から出る音は、鈍い共振によって低い領域で強められた、すなわち(1)の特徴を与える音であるが、その共振点以外でも、弱い音が出る。これはフォルマントの領域では、口から出る音が強いので、問題にならないが、その他の領域では目立ってくる。

 

とのこと。(3)については、鼻腔を含めた共鳴は(1)だけでないぞ!ということかなと。以上のことは、ノド、クチ、ハナで共鳴した音がクチ、ハナからでて、聴取者に「鼻音」として認識される音声についてだが、ハナから出ている音だけを録音してみたらどんな感じか?という点についても言及している。

 

 実際、ちいさなマイクロフォンを鼻孔に差し込んで、鼻音化母音を発音し、鼻孔から出る音のスペクトルを調べてみても(論文の図11)、母音のスペクトルと一見して明らかに異なったものであり、共鳴特性も鈍くて特に顕著な山もなく、鼻の通路は、特に高音域では共鳴室というよりも、むしろ損失の大きな音の側路として働いていると考えた方が良いようである。

 

そしてそして、

 

 鼻腔の形状などは、個人差がかなり著しく、従って鼻腔の高い方での特性は、人によってかなり区々(まちまち)であろう。それ故、鼻音化という一つの調音上の要素に結び付いた特徴としては、これらの個々の細かい構造を問題にすることは適当でないと考えらえる。前節で述べた聴覚印象上の実験の結果から考えても、鼻音化の印象は、だいたい上に3つの特徴として述べたものによって与えられ、これが持続音としての鼻音化母音に共通の主な特徴である。

 

 個人的な感想なんだけど、鼻腔の特定の周波数帯での「響き方」が鼻音の特徴だとすると、個々人の鼻腔の形状の違いでその「響き方」が大幅に異なることになってしまう。確かに、個々人の鼻腔の形状の違いがある上で、鼻音としてその個別言語内での音韻の弁別に関わる特性をもつには、「響き方」よりも「響かせない方」のほうが、個人差を少なく弁別特性を担えるような気がする。前述したように、鼻腔は複雑な構造をしており、またその複雑さの上に個人差があるわけだから。

 

 

以上がまず鼻音としての「母音」についての素晴らしい論文の要約引用でした。興味のある方は原文を是非、通読いただければと思います。冒頭に書いたように、昭和31年の論文です。もちろん最新ではありませんということは御了承下さい。きっと新しい研究者の知見がこの上に成り立ってると思います。この論文の理解の上で、どんどん「鼻音」について楽しんで下さい。

 

 

〈引用元〉

タイトル:『母音の鼻音化』 日本音響学会誌第12巻第4号(1956)

著者:服部四郎東京大学文学部)、山本謙吾、藤村靖(小林理学研究所)

発行:昭和31年9月24日受理、昭和31年10月22日再受理