絶対音感について
雑音にも音階?を認める人がいる。また440ヘルツ〜442ヘルツなど音階よりも細かい差異も聞き分けられる人がいる、つまり、一般的な音階の知覚は序の口で、周波数1Hzレベル、更には雑音(周波数を持たない)にも「音感」を知覚可能な人がいる。言い換えれば、特定の周波数から1Hzごとに連続的に変化する刺激に対して、そのまま変化量を知覚できる人と段階的(カテゴリ的)に知覚したがる人がいる。
赤ちゃんは言語獲得前は、音に対してそのまま知覚して模倣が可能らしい(文献より)。言語を獲得した後あたりからそれができなくなるとのこと。カテゴリとして知覚するという技術?を使い始めるからだろうか。音階に限らず、自分を取り巻く世界にある連続的な変化のなかに「区分け(カテゴリ)」を探すようになるからかもしれない。
カテゴリ知覚の結晶ともいうべき「言語」というシステムができるようになると、それを外した知覚ができなくなる。
言語獲得前は連続的、獲得後はカテゴリ知覚・・・。このカテゴリ知覚の「章立て」?「感度」?がもっとも過敏で、あるいは一旦の終了を得る頃合いを「臨界期」というのかもしれない。
以前の症例(3歳児)
メンバーNさんの訪問時、Nさんを模倣したような発音あり。音階知覚可能なNさんにとっては何と言っているかわからなかった。今思うとあれは、音階前の未分化な連続音の模倣だったのではないか。
音階の知覚(連続音に対するカテゴリ知覚)は、臨界期前の獲得が効果的だろう。
「獲得」はある程度たくさんの刺激を受ける中で、無意識的な自覚?が働き、そこにカテゴリ化する有用性に気が付いて獲得されるのではないか。音階の知覚だけ長けて、楽器をしない人はあまりいない(逆はいる)。そう思うと、特定の刺激群をカテゴリ化するためには、それを知覚することで自分にメリットがあるだろう…というような「用途」がないと獲得されていかないのではないか。用途を感じてそれに誘発されて獲得されるのではないか。
だから、単純な音の操作(模倣など含む)を音声の操作へと昇華するには、まず音の操作が自分にとって有意な行為であるという気付きがあり、その先に音声を使えることが、更に自分にとって有意義なツールであるという経験が必要ではないか。そのような自ら発する音が、周りの人との接点になるという経験を「音楽療法」が導いて、その先に音声を用いることが、周りの人との友好なツールとなるという「言語経験」に繋げれば、その大脳が今後は「言語」を使ってみようかなとならないかなぁ。
20代の症例
段々と音声言語の操作が増えている。2連の単語や「これでおわり」など。
以前は噛みつく殴るなど、行為で自分を表現することが多かったが、言語が増えるに伴って、その種類の不適切行為は減ってきた。音声で言葉として伝えることが、体動や髪付きなどで表現することをしなくても済むようにしているのではないか。
意思表現のツールとして言語を使うことは、相手への明確な意思をつたえられる。相手、つまり社会との接点となるか。つまり、自分以外へ暴れる、嚙みつくなどの一方的な不適切行為を通じて排除する(接点を持つ)のではなく、自分の想いを「ことば」でかたどって自身の音声で表現するという行為を、自分以外(つまり社会)と繋がるツールとして活用できるようになったのか。
言語を使うことは、社会性をおびる(あるいはまわりの人と共通の方法で関係を構築できる=社会)ということか。
確かに部屋の鍵を閉めなくなった。自分以外との関わり方にも変化が?とのこと(^^)
以上。
またの議論を楽しみにしております。