臨床の学び舎おんせいげんご BLOG

『臨床の学び舎おんせいげんご』の各部門の予定や今までの勉強会の内容などがチェックできます。

6/2 京都おんせいげんごでした。

 遅くなりましたが、6/2土曜日に行われました京都おんせいげんごのレポートを載せておきます。ちょっと長いですけど、考えさせられる内容です。

 

 ルリア失語症理論を、『失語症の基礎と臨床(金剛出版)』の第4章あたりから紹介してくださいました。


 とりあえず、ルリアの失語症理論はいわゆる神経心理学の1派となるわけですが、とりわけルリアは失語症について「系的力動的局在論」という視点を唱えています。それはヴィゴツキーの心理学やヤーコブソンチョムスキーなどの言語学、更にはパブロフの生理学(ワンちゃんのヨダレ話だけではなく、高次神経活動学説とか中枢神経の形態学など発表されていたらしい)を取り込んで、統合したものらしいです。


 ちょっと表現が難しいのがしんどいけど・・・言語活動をはじめとする高次の精神活動は、階層的構造を持つ多くの構成要素(環)からなる機能体系、それぞれの「環」を保証する皮質・皮質下の諸領域の協調的な働きにより実現する…としています。

 

 いやぁ、難しいことばが並んでいますが、この「環」ってのがいわゆる「リンク」でどうでしょうか。言語活動をはじめとする高次の精神活動は、いろんな機能が階層的にも協調的にもリンクしているって感じですね。そして、そういう状態を「力動的」とするわけです。「力動」というのは『精神医学ハンドブック』からの引用で「心的現象の基礎にさまざまな心的な力が作用しあっている」とのことでした。

 

 どうでしょう?なにやら大脳の働きを動的に捉える感じがしませんか?そこがこのルリアの失語理論の魅力だと思いますね。解釈の基本が個々の場所の局在論に終わらず、「動き」があるんですよね。

 

 ルリアは脳に3つの基本的機能単位系というのを提唱しています。

  • 脳幹・辺縁系:皮質の緊張(Tonus)と覚醒を調節。
  • 大脳半球後部:情報の受容、加工、貯蔵
  • 大脳半球前部:複雑な型の活動のプログラミング、調節、制御

 また、これらを上下(垂直)の関係と前後(水平)の関係として結びます。

  • 皮質と皮質下構造の間>垂直的な機構
  • 皮質間:水平的構造

 また局所脳損傷による症状については…

  • その部位が保証していた環(リンク)の障害による一次症状があり、
  • それに続いて、二次的に機能形全体が織りなす系的障害、
  •  それらに対して機能的再編成によって生じる


…としています。例えば、その脳の領域がどんな機能を持っているのかについて神経心理学的分析を行う際には、これらの症状の種類を考慮(一時的症状を区別し、他の局所症状と比較検討)して考察されるとのこと。

 

 例えば、無理やりですが「ドーナッツがうまくできずに焦げちゃった」状況を例に説明すると、生地の段階で卵とかベーキングパウダー入れ忘れるエラーもあるでしょう。そして、それは結果的に焼くときに焦げる、膨らまない状態として顕在化する。挙句、それをごまかそうとして、なんとかカリッカリでクリスピーな・・・いやいや、そんな良いモノではないなと最終的にまったく失敗に至る。つまり…

  • 生地の段階で全体のリンクを損なう一次症状がある。
  • それ故に二次症状としてこげるし、ふくらまない。
  • なんとかならないかなと代償的な再編成に取り組んじゃったので…最終的にあらぬものになる。
     

 場合によっては、元々の生地はちゃんと準備したんだけど、単に火が強すぎて焦げた場合もあり得るでしょう。その場合にも「火が強い」という原因だけでなく、早々に火を止めるという行為が欠如していたことも関係するでしょう。いずれにせよ、「うまいことできずに焦げたドーナッツ(症状)」と「その原因」は一対一で考えるのは安易だということですね。

 

 大脳機能が織りなした「症状」についても、大脳にそれを担う部位があって、そこが調子悪いから「症状」が生まれるというだけではないんですよね・・・。一次、二次、そしてそれに対する機能的な再編成などいろいろと織りなされていると考えるわけです。


 まぁ、実際にご様子を拝見する時には、この仮説通りでも少なくとも3つ巴の状態ですから、簡単に分けられるものではない気がしますね。でも、脳画像見てココがコレだからアレが出るってだけの短絡的に因果関係を導かずに、こういう力動的な視点をもつことは有益でしょう。もう古い書籍ですが山鳥重氏の『神経心理学入門』においても陽性/陰性症状という用語に垣間見える解釈です。

 

 そして、ルリアがいうには…高次精神活動が正しく実現されるには、大脳皮質の神経活動が高度の選択性と適切な易動性を保っている必要があるとのこと。ここ、今回、個人的に興味深かったところです。

 

 例えば、「強さの法則」というのを挙げています。


 それは、正常な神経過程では「強い(重要な)刺激には強い反応が、弱い(重要でない)刺激には弱い反応が出る」とのこと。まぁ、正常とされるヒトは、外界からの刺激の度合いに対する自己の反応を、その刺激に適切な強度でうまく反応することができるってことかなと。

 

 ちょっとズレるかもしれませんが、とりあえずこの仮説の概ねの理解のために、「動き」を例にしてみます。



 上記の机の上にあるもので、地球儀を持ち上げる力で、鏡の前の花を持つとどうなるでしょう?また、キャンディーボックスorキャンディー単体では重さ(刺激)に対する反応は適切に調整される必要があります。ほかにも、電気は一度付けたらある程度はそのままでOkですが、本のページはその都度めくります。本をめくるペースで電気をカチャカチャと付けたりする必要はないですね。


 こういう行為においても、自分にとって「それ(刺激)が何であるか、どうあるのか」に対して、「こうすべきである」が適切に選択されて実行される必要がある。そのように人は常に刺激に対する反応を妥当な程度にシレッと調整しているんですね。

 

 その能力において、病的な状態では・・・

 

 「強い刺激にも弱い刺激にもほぼ等しい反応をしてしまう」傾向があると言います。これを「均等相」といい、高度の選択性が失われていると考えるようです。
また、「ある神経過程から他の神経過程への速やかで流暢な転換が不能になる」状態も生じるとして、これは神経活動の停滞であり、易動性の低下(惰性的ステレオタイプ)といわれるそうです。

 

 上の「机の上のモノ」と「動き」の例で言えば、「花」を持つ感じで「地球儀」を持とうとすると、それらの刺激量(重さ)に対して選択性が有効に働かず、「…ん?」とうまくいかない。逆の場合、「地球儀」を持つ感じでは「花」の持ち具合が(重さに適していないので)かなりぞんざいな扱いになるという感じでしょうか。ページをめくるペースで電気をパチパチするような状態(流暢な転換が不能)が起きるかもしれないわけです。

 

 この辺りは山鳥重氏の注意の選択性、転導性という用語にも溶けこんでいますね。とにかく、「刺激」に妥当な「反応」が選択されていない、流暢に切り換えられないという状態が大脳機能の低下の際に生じると指摘しています。

 

 興味深いのはこの視点で失語症の「錯語」も説明するわけです。

 

 どういうことかというと、例えば、鉛筆を呼称する際に大脳には「えんぴつ」という語彙の隣近所に「ボールペン」とか「くれよん」とか「筆」とか、いわゆる同一カテゴリーに存在できる語彙がいるわけです。イメージ図です。

 



 そこで、上記の均等相を持ち出すと、そこから語彙が選ばれる際に、どの語意にたいしても「これはこの語である蓋然性(確からしさ)においてほぼ等しい反応をしてしまう」わけです。その結果として、その大脳機能としては鉛筆なのにサインペンとか筆とかを錯語として発語することを良しとしてしまうというわけです。もちろん、この後に「保続」が生まれる理由も説明可能でしょう。つまり、「ある神経過程から他の神経過程への速やかで流暢な転換が不能になる」ために、同じ語を話すことを続けてしまうことを良しとしてしまうわけです。

 

 また、この同一カテゴリーという架空の認識範囲には慎重になる必要があります。例えば、上述の「鉛筆」ですが、「文房具」というカテゴリーを用いれば定規やコンパスとも同じカテゴリー内です。また「最近、見かけないけど家の机の上にあったなぁ」というカテゴリーを用いれば、キッチンやリビングにあるものにも近づいていきます。


 また、前回の「ことのわ会」のBlogにコーシカ(ネコ)の意味場において近接する語彙(語の背後にある結合)があるという説明の中で・・・

 

音声結合(音の類似性にもとづいた結合)
 >クローシカ(小片)、クリューシカ(蓋)、アコーシカ(小窓)
状況による結合
 >ミルク、ネズミ
概念的な結合
 >野生の動物ではなく家畜、無生物ではなく生物

 

 …などをみると、正常では押さえられているという音声結合など「均等相」に至った場合、つまり、話すべき語の処理過程において、他の音素に対して「これはこの語である蓋然性(確からしさ)においてほぼ等しい反応をしてしまう」結果、音韻性の錯語が起こるとも考えられるわけです。


 いやぁ、興味深いですよね。語で間違えたら語性錯語、音で間違えたら音韻性錯語の背景の内的機構について視点を持とうとするわけです。こういう考え方って、学派によっていろいろと考えだされていそうですけどね、これが大脳の実態!とまではいかなくても、おしゃべりに困っている方のご様子を拝見する日々の経験に照らし合わせても、一定の説得力を感じます。

 

 また、Luriaの理論の基盤にある言語学の知見について、Jakobsonさん(ロマーン・オシポヴィチ・ヤーコブソン。ロシア人の言語学者ハーバード大学マサチューセッツ工科大学など多数の大学で名誉教授を務めた。from wikipedia)からの引用にて、「言語行動には選択と結合という2つの基本的要因がある」として紹介されていました。

 

 選択とは「類似により結ばれている言語単位間からひとつの言語単位を選び出す。」としています。例えばですが、数ある動物の名称のなかから「ライオン」を選び出すわけです。そして、それを結合するわけです。この結合とは「すべての言語単位はそれを構成する諸単位からなり、他の言語単位と結合した形でのみ現れる」ということらしい。なので、選択した「ライオン」が「おっ!ライオンがいるじゃん!」という形で他の言語単位を結合して、ライオンがいることの喜びを語る文になるわけですね。


 この選択と結合という考え方は、ソシュールで言えば、範列(パラダイム)と連辞(シンタグム)に通じますね。

 

 ルリアはこのような視点をもってして、失語症を以下のように3つの2分法を用いて6種に分類するそうです。

 

・範列的機構の障害(選択の障害)・・・左(優位)半球後部
・連辞的機構の障害(結合の障害)・・・左半球前部

・同時性結合の障害・・・左半球後部
・継時的結合の障害・・・左半球前部

・表出(符号化)の障害
・受容(符号解読)の障害

 

 「ライオン」が選び出せないのは範列的機構(選択)に課題があり、「ライオンがいるじゃん!」というような構文できないのは連辞的機構(結合)に課題があると考えるわけですね。それらは結合の種類で考えれば同時性あるいは継時性の視点としても考えることになる・・・。奥が深そうですが、少なくとも「運動・感覚」とかBrocaとかWernickeとか人名でわけておくよりも、その方のご様子に対して視点や考えを広げやすいですね。

 

とりあえず、以上です。興味深い時間でした。

 

古田

 

onsei-gengo.jimdosite.com